母がボケた。

梅雨明けの晴れやかな土曜日、東新宿の街は韓流ショップ目当てのおばさまたちでごった返していた。そんなおばさまたちのことなど全く意に介さず、一騎当千全員なぎ倒さんばかりの勢いで、私の方へ豪速でかっとばして来る自転車が一台あった。
迷惑な人だな、と一瞥し、その人とすれ違う時に備えるべくちょっと大げさに道を避けたその時、
ナンダオ前ハー!!
ショッピングに興じるおばさまたちの、まるで女学生かのように楽しげなムードを一気に凍てつかす怒声が、まだ5メートルは先にいるその自転車の主から発せられた。
主は油まみれのポロシャツと、うす汚れたキャップをかぶった汚いおっさんであり、そしてどうやらその怒声は私に向けられているようだった。
自転車はさらにスピードを上げ、キュキューっとスライド気味に急ブレーキを決め、私の眼前に立ちはだかった。

汚いおっさんは、私の父であった。
同じ都内に住んでいるけれど丁寧に慎重に、なるべく会わないように生活しているので、父に会うのは半年以上ぶり、今年に入って初だった。

そしてまるで私が未だに5メートル先にでもいるかのような大声で
もうあいつはダメだ、完全に気が狂った!とまくしたてるのである。
いや、その、誰がどう見ても狂ってるのはあなたですよ、なう。と、思いつつも。
あいつ、とはつまり私の母のことだ。父は興奮するとものすごく甲高い声で喚く性質で、何を言いたいのだか全く要領を得ない。
仕方ない、ふんふんと聞いてやり過ごそう、と思ったその時、その言葉は発せられた。

あいつ、自分に息子のいることなんて、すっかり覚えてないんだぞ!

遅かれ早かれ母はボケるだろう、という予兆はこの一年ずっと感じていた。電話がかかって来るたびに同じ話が無限ループするようになっていたからだ。

あんた、お金なんで入れてくれないの
入れたよ、入れたばっかだよ
嘘よ、今日給料日じゃない
ちがうよ会社変わって給料日変わったよ
あんた仕事やめたの
そうだよ、今はこんな仕事だよ
そう、そうなの、あ、あんたお金なんで入れてくれないの
入れたよ

以下無限ループ、という具合の電話が3日おきにかかって来て気が滅入ってしまい、家からの電話には出なくなった。
それからほどなくして、ぷつりと、父からも母からも電話がかかって来なくなり、なんだろう、二人とも死んでしまったのだろうか、と、少しだけ本気で心配になるくらい音信が途絶えた。

そこへ来ました「息子いること忘れてますよ」発言。
あ、両親ともとりあえず生きてたし、息子いるの忘れちゃったから電話来なくなったのか!とスッキリした気持ちと
そうか、息子いること忘れちゃったのか、そこかー。そこ忘れちゃうのかー。というモヤモヤした気持ちを同時にかかえたその日。本当に良く晴れてとても暑かったのを覚えています。

母がボケたと聞いて、帰る勇気が出なかった。しかし今度は父がおかしくなって来て、SOS電話がひっきりなしにかかって来るようになり、その度に電話の内容が支離滅裂なので、遂に意を決して家に帰ってみることにした。

帰るとすぐに店先をうろついている母が目に入った。家業は弁当屋である。
声をかける勇気がなかった私はとりあえずカウンター越しに店内の父に声をかけた。
すると後ろから「いらっしゃい」と母に声をかけられた。
今までも帰るとたいてい「いらっしゃい」と言われたので、胸をなでおろし振り向くと、
そこにいるのはまぎれもなく母であったが、しかしまったくの別人であった。
私を見る母の目は、どこかで見たことある人だ、誰だっけ誰だっけ誰だっけ?と、私が誰であるかを思い出すべく、激しく泳いでいた。

とにかく入って来い、と父に言われ中に入ろうとすると
あ、注文は外から...
と母が弱々しい声をかけてきた。
どうしていいかわからないので背中越しに無視して中に入る。

父は相変わらず要領を得ず、あいつはもうダメなんだ、のワンフレーズを延々と繰り返すだけ。その間に母も店の中に入って来た。
すると今度はさっきよりも確信を得た声で「あんた久しぶりね」
と言う。よかった思い出してくれた。
「あんた、いつアメリカから帰って来たの?」
ん、これはどうやら母の弟という設定で話しかけて来ている。
ヒゲなんて生やしちゃって似合わないわよ。ヒゲはもう何年も前から生やしている。
「この人がね、私のことボケ老人だって言うのよ。そんなわけないわよね。おばあちゃんこんなもんじゃなかったよね」
私が生まれた時には両親の母親はどちらも他界していたので、私は祖母を知らない。
それに健常だった頃の母の話ではボケていたのは母方の父のはずである。
いろいろとちょっとずつ、記憶、記憶と言うか母の中でのストーリーがねじれている。

こんなだからもう家はダメなんだよ。とずっと繰り返す父。
私ボケてなんかないわよねー。失礼しちゃうわよねー。とずっと繰り返す母。
気が狂いそうだ。いっそこっちも狂ったら話が合うかしら。なんて思っていると
突然母の目の色が変わる。あんた、何年ぶり?もう二度と帰って来ないと思ったわ。
突如目の前にいるのが息子であると認識したようである。
しかし、やはりストーリーがねじれていて、たかだか半年ぶりくらいのものが10年ぶりの感動の再会、みたいなテンションになっておりめんどくさい。
と思ったら突然低い声になり、ちょっと外来てよ、と母が言う。
外に出ると母は言う。

あんたなんであの人知ってるの?
え?あの人って?
中にいる人よ。あの人、誰?

息子のことを思い出した代わりに旦那のことを忘れてしまったようだ。

え?お父さんのこと?
ん...はは、何言ってんのよ。あの人ね、森さんね。なんであんた森さんのこと知ってんの?
え?森さん?
中にいたでしょ、森さん。森さんひどいのよ。私のことボケ老人扱いして、クビにしようとするの。
そういうわけにもいかないじゃない。私あの家出て、もうずっとここで働いて来たのに今更クビにするなんて...

父のことを思い出せないので、父を店主、自分が住み込みの従業員というストーリーになっているようだ。合わせるべきなのか、ちがうよ、っていうべきなのかわからなくて、ふと目を横にやると今年の母の日に私が贈ったあじさいの鉢があったので、話題を変えてみた。

あ、これ、母の日にぼくが送ったんだよ。
わかってるわよ。でもね、全然咲かないの。
あじさいだから、もう終わったけど送った時は咲いてたでしょ?
ううん、もう何年も一回も咲かないの。こんな日陰に置いてるからそうよね。

七分咲きくらいの時に送ったのだけど、もう忘れてしまったようだ。
そしてまたストーリーが変わる。

あんた、あの人なんで知ってんの?
森さん?お父さん?なんて言おう..あの人って?
森崎先生よ。中にいたでしょ。私の先生なんだけどヤブ医者でさ、私がボケてることにして病院入れて、お金取ろうとするのよ。それで病院行かないって言うと殴られるの。ほら見て。アザだらけ。

と、特にアザのない脛を見せて来る。
ほらもうひどいひどい。

その後も2分おきくらいに「中にいる人」が違う人間にコロコロ変わる。
私のことも、思い出している、というわけではなさそうだ。息子として話した結果、話の辻褄が合っているので確信している、という状態な気がする。

じゃあもう行くね。
と言うと母の目にみるみる涙があふれて来る。
行かないで行かないで、あの人がいじめるのよ。たった一人の息子でしょ。
店先でボロボロ泣いて腕にすがる母。
やっと会えたんじゃない。もう一生会えないかと思っていたのよ。10何年ぶりでしょう。まだ子供だったのに。

こんなにも泣きじゃくる母も、私の腕にしがみつく母も初めてだったのでとても困惑する。困惑する私を見て、母の目がまた泳ぎ出す。あれ?息子じゃないのかな?それで途中からまた弟になる。泣いていたことも、なかったことになる。

あんたいつの便でアメリカ帰るの。私も連れてってよ。

不覚にも涙があふれそうになって、じゃあもう行くね。また会いに来るから。と、振り返った。
アンタに会えて元気が出たわ。また来てね。と背中で母が言った。

道端だったけど涙があふれてとまらなくて弱った。
半年前にあった時より、何十倍もおばあちゃんになっていた。
けどなんかすごくキュートになったな、と思った。
大人と言える年齢になってから十数年、親とはお金の話しかしていなかった気がする。
ものすごく貧乏でたくさん借金があって、いつもお金に困っていて、ボケる前の母の顔は鬼みたいだった。本当に憑き物が取れたように、きょとんとしたかわいらしい目をしていた。
忘れたかったんだろうな、と思った。辛いことばっかり、忘れたいことばっかりの人生だったんだろうな、と思った。

悪口が好きだ。適切なメンバーと適切な悪口で盛り上がる時間はとても楽しい。
しかし母は適切ではない場面で、適切でない暴言を吐き人を深く斬りつける人であった。私も父もたくさん嫌な想いをしたし
ここ十数年は、とにかく鬼みたいな形相でお金の話ばっかりするので母のことを煙たがっていた。死ねばいいのにな、と思っていた。それは、嫌いだからじゃなくて、生活も精神もあんな状態で、辛い苦しい死にたいと言いながら生活を続けるなら、いっそ本当に死んだ方がマシなんじゃないか、母の辛い人生が終わればいいのに、と思っていた。

だけど帰り道、子供の頃は両親のことが大好きだったな、って思い出した。
学校ではイジメられて友達もいなかったので、世界で自分の味方は両親だけだった。
その両親がいつかきっと自分よりも早く死んでしまう。そうしたら自分はこの世でひとりぼっりになっちゃう、と思って、
毎日寝る前になると、自分が寝てる間に親が死んだらどうしよう、って思って眠れなくなってしまう日が続いた。
それで両親宛てに、自分より先に死なないで、と手紙を書いた。
父は直接、お前は独りなんだ。独りで生きて行けるように強くなれ。と言って来て、なんかウザったいなこの人、って思ったのを覚えている。
母は手紙を書いて返してくれた。なんて書いてあったのかはもうすっかり忘れてしまったのだけど、その手紙のおかげでものすごく安心して、その日からぐっすり眠れるようになった。
なんて書いてあったんだっけな。

母のつくり出すストーリーを、なるべくたくさん聞きに行こうと思った。
お金以外の話を、怒っていない母と、あんなに長く、と言っても20分くらいだろうか、だけれども、話し合ったのは、大人になって初めてだった。
それがなんとなくうれしかったのかもしれない。ストーリーも登場人物もコロコロ変わる母の話をたくさん聞いて、それをたくさん書き留めておこうと思った。
子供の時以来久しぶりに母のことを、好きだな、と思えた。ボケてくれてありがとう、と、今のところ思っている。


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